約100年前の建物である自分の旅館で、ヤマナ・ヨシコさんはあぐらをかいている。赤紫のTシャツに、鳶(とび)のだぼだぼのズボンをはいている。縮れた髪の毛はしっかり黒く染められ、裸電球の下で青光りするほどだ。ヤマナさんは自分の人生を語っている。そして明らかに楽しんでいる。何か壁にぶつかったところに来ると、毎回手を叩き、のけぞりながら高笑いする。結婚について話すときもそうだ。
「最初にここに来たのは26歳のときでした」とヤマナさん。「離婚したばっかりで。結婚生活は半年でした」
拍手。笑い声。
精力的で、84歳の今も独身のヤマナさんの表情は、やがて禅のような笑みへと落ち着き、それ以上の質問は少ししづらくなった。
みぎた旅館の建物が建てられたのは100年以上前だ。
写真=郡山総一郎
「みぎた旅館」は日本の昔ながらの旅の宿だ。旅館はそもそも、巡礼者が中世から使っていた、今は消えゆくもてなしの精神を受け継ぐ街道沿いに建つ宿だった。みぎた旅館の不規則な形の建物は、本州南部の端に近い山口県周南市の、平凡な低い建物が集まったエリアの一角にある。ヤマナさんの人生と同じく、周南市の歴史にもアップダウンがある。石油や石油化学製品を扱う港として栄えた一方、第二次世界大戦時には空襲を受け、壊滅状態になった。みぎた旅館は、その地獄をなんとか生き延びた。ヤマナさんがこの建物を買ったのは1965年で、当時すでに使われておらず、放置されており、窓はどくろの目のくぼみのように暗かった。購入費用は借金した。
「30年間毎月、銀行に借りたローンを返し続けました」とヤマナさん。「稼げるとわかっていたので。自分の力で。自由でした」
みぎた旅館は、インターネットにはほとんど出てこないも同然だ。そう呼べるとしたら、宣伝は口コミだけ。支払いは現金のみ。だから友人の総一郎と私は宿泊できた。私たちは日本を歩いて旅している。大都市やにぎわう観光地以外では、宿泊施設はおどろくほど少ない。総一郎はメジャーなホテルアプリをすべてチェックした。人口14万の周南市で、空室はひとつもなかった。くじけずに次は、地元の小規模な施設ひとつひとつに電話をかけはじめた。その中で、ある電話番号を掘り起こした。「おばあさんが出た」。モノクロの黒澤映画で俳優がダイヤル式電話の受話器でやるように、手のひらでiPhoneの通話口を覆いながら、総一郎は興奮してささやいた。「ひと晩泊めてくれる。2泊してもいいって!」
宿泊客の夕食を用意するヤマナさん。
写真=郡山総一郎
水仕事をしてきた手。「近所の人によくからかわれますよ」と84歳のヤマナさんは話す。「この先30年経ってもまだここでシーツ洗ってるでしょ、ってね」
写真=郡山総一郎
みぎた旅館は、大陸を越える旅していて、思いも寄らない土地でときおり出会う、パラレルワールドへの入り口のひとつだ。まるで、3人のギリシャ人の兄弟がオーナーの、ハルツームのダウンタウンにかつてあったペンションのように。1950年代、兄弟は荒れていたスーダンのその場所で、考古学や人道支援、外交の機密のミッションのたびに物資の用意などをしていた(緊急で現金が必要になった場合、管理人のタナシス・パゴーラトス氏に聞いてみよう。もし話を気に入ってもらえたら、奥の部屋にある家族の金庫の重たい扉をぐいっと開けてくれるかもしれない)。あるいは、戦時下のクロアチアの停電したオシイェクの街にあった地下の食堂のように。秘密ののぞき穴がついたドアの向こうでは、汚れた軍靴をはいた男女の酔ったテーブルダンサーたちのために、長テーブルにろうそく、ワイン、グヤーシュ(煮込み料理)が戦略的に並べられていた。もしくは、カイロの濁ったナイル川にある島、ザマレク地区にあるマダム・ヘバの宿のように。檻のような扉のついた太古のエレベーターがあり、英国支配下のエジプト風のロビー(ここはマダムのリビングルームだ)には、こっそり持ち込まれるピストル対策として金属探知機があった。でもマダムのミントタブーレ(サラダ)はみんなの心を安心させ、武装解除させた。
みぎた旅館はそんな鏡の国への入り口だ。
30ある質素な部屋は、有機的に、非対称的に、あるいはとらえどころなく、まるでアリの巣の部屋のように並んでいる。部屋にたどりつくためには、誰かの眠りも足音を忍ばせる忍者さえもお手上げのキーキーときしむ床の暗くて曲がりくねった廊下の迷路を、身をかがめて進まねばならない。枕の中身はもみがらだ。部屋の引き戸を開け閉めすると、シューというくたびれた音がする。部屋を仕切るふすまが常にささやき声で話さなければならない気持ちにさせる。今はない桜並木から取られた、節のついた巨大な木の幹が、瓦屋根を支えている。あと部屋にあるものといえば畳だ。
「若い日本人は来ないんです」。むっとしたようにヤマナさんは話す。「共同のトイレが嫌みたいで」
ヤマナさんが、放置されていたみぎた旅館を買ったのは1965年。第二次世界大戦中は海軍の将校が使っていた
写真=郡山総一郎
ヤマナさんが窓の外の通路を身振りで示す。実際に指しているのは、手作りのガラス越しに景色が歪み、渦巻いているさまだ。ヤマナさんは屋根の骨組みに彫られた、皇室の菊を見上げる。この旅館は戦時中、海軍の将校が使っていた。
「彫刻が壊れたら、もう交換はできません」とヤマナさん。「職人は年を取り過ぎているか、亡くなっているので」。手を叩きくすくす笑う。
ヤマナさんは村の生まれだ。
周南市から100キロメートル以上離れた、豊浦地区の集落で育った。中国から東京に向かって田んぼの上を飛んでいくB-29の編隊を見たのをおぼえている。父親と再会したのは終戦から4年経ったときだった。満州の戦争捕虜収容所から解放され、威勢良く歩いて帰ってきた。父親は家族経営の日本酒の醸造所を再開しようとしたが、利益を食いつぶした。ヤマナさんは逃げるように都市へと出てきた。
「経営はうまくいっていました」。ヤマナさんは話す。「人気もありましたし。従業員は10人いたんです」
現在のみぎた旅館はもっと静かだ。コロナ禍により、1年間は営業できなかった。それから客足は戻っていない。私たちが泊まるときほかにいた客は、郵便局員と建築作業員のふたりだった。ヤマナさんは台所仕事をする。ふたりの中年のスタッフが、何百ものブリキ、木、磁器の台所用品が積まれた棚に囲まれて、夕食の準備を手伝う(「ずっと一緒にいるんです」。スタッフと台所用品両方について、ヤマナさんはそう話す)。
引退について尋ねてみる。
「あと5年も経ったら、私の体も店じまいかもしれませんね」。ヤマナさんはにやりとしながら言う。「たまに、全部売って、また自由になろう! って考えることもあります。でもやっぱり、いや、まだ続けようって思うんです。近所の人によくからかわれますよ。この先30年経ってもまだここでシーツ洗ってるでしょ、ってね」
ヤマナさんは手を叩き、笑い声をあげる。その夜、総一郎と私は、ヤマナさん手作りのまぐろごはんを食べた。味噌汁付き。労働者の食事だ。鮮やかなピンクのがりが、苦くも甘くもあり、一口ごとの記憶を毎回きれいに流していく。
ヤマナさんは台所で、ブリキ、木、磁器の台所用品が積まれた棚に囲まれて仕事をする。
写真=郡山総一郎
