その木々は年老いている。
街の中心部にある公園に、くたびれた見張り番のように立っている。太い枝は年のせいで曲がっていて、大きな金属製の支柱に支えられているものもある。傷を覆うかさぶたのような分厚いカルスが幹を歪めている。80年前、初めて実戦で核兵器を広島に落とした米国のB-29がもともと目標としていた相生橋に面した側に、特にそうした傷痕が見られる。米国ノースカロライナ州の農場生まれの爆撃手が落とした爆弾は、橋から260メートルそれ、島病院の上空600メートルでウランが臨界に達した。爆心地は現在は駐車場だ。爆心地付近は4000℃の閃光に襲われ、生存者はほぼいないと想定されていた。結局、犠牲者は7万人から14万人と見積もられた。ただ爆心地付近に生えていた何本かの木は、奇跡的に生き残った。焼け焦げになって引き裂かれ、黒焦げの切り株だけになっても、キノコ雲からの「黒い雨」の後に枝をまた伸ばしたのだ。こうした奇跡の植物を、日本では被爆樹木と呼ぶ。広島市内には159本が残っている。
「クスノキにクロマツ、センダンなどがあります」。80歳の樹木医、堀口力(ほりぐちちから)氏は言う。30年以上にわたって、広島の被爆樹木のリストアップや保存活動をしてきた。広島城のすぐそば、爆心地からたった750メートルのところにあるこぶだらけのユーカリの下に立ち、堀口氏は言った。「この木の種からは芽が出ないんです。放射線で不妊になってしまったんでしょう」
広島にあるこの年老いたユーカリのような被爆樹木にはたいてい、1945年8月6日に街を破壊した衝撃で受けた傷が見られる。
写真=ポール・サロペック
めがねを掛け、こざっぱりしたヤシの葉の帽子の下で年を取った表情を曇らせる堀口氏が、被爆樹木について語るとき、そこには長いことかかりつけ医として診てきた、愛情のこもった親密さがあった。堀口氏は地下にも言及した。被爆樹木の根は、現在でも爆心地から離れる方向に育っているそうだ。戦争を経験した弱っているヤナギの幹のうろには、湿らせたコケを詰めて治療した。被爆樹木の地上に出ている節くれだった根を観光客が踏むのを堀口氏は心配していた。人々が樹皮に触ることについても、決して喜んではいなかった。それでも、必要性をわかっていた。
「目撃者なんです」。世話を託された、物言わぬ木々についてそう語った。「私たちがこんにち耳を傾けなければならないメッセージがそこにあります」
傷つき、歪んだユーカリの木に私が手のひらを置くと、堀口氏はほほえんで頷いた。私は何かを感じ取ろうとした。
数日前、一緒に歩くパートナーの写真家、田中“RIP”友規(とものり)氏と私は、「ウエストミンスターの鐘」が午後5時に流れる村々を抜けて、南西側から広島市に入った。黄金色の田んぼでは、自分たちのキッチンカーのための有機米を若い女性が手作業で収穫していた。それから車がせわしなく走る橋で6本ある川のうちの1本を渡って街中に入った。蜂の巣の中の幼虫のように客が眠るカプセルホテルを予約し、泊まった。朝食は街中のおしゃれなカフェで食べた。料理を作っていたのはポニーテールのオーストラリア人だった。
広島を先入観なしに見るのは難しかった。
120万人が住むこの港町は、永遠に消えない特異なトラウマが刻まれた人々を生みだした圧倒的なあるできごとに打ちひしがれていると思い描かれている場所のひとつだ。
広島の平和記念公園を訪れる人たちは、第二次世界大戦時の原爆の爆心地付近で唯一残った建造物、原爆ドームにお供え物をする。広島への原爆投下では14万もの人が亡くなったとされている。
写真=ポール・サロペック
米国人の多くと同様に、私はヒロシマについておおむね、ジョン・ハーシーの有名な本を通して理解している。ヨーロッパ人がヒロシマを知るのは、マルグリット・デュラスが脚本を手がけた、フランスのヌーベルバーグ映画を通してかもしれない。日本人は、義務教育でヒロシマの惨事を学ぶし、ある世代の人であれば、『はだしのゲン』という昔の漫画で想起するだろう。そしてもちろん、およそ10万人の、とても高齢で、急速に人数が減ってきてしまっている被爆者と呼ばれる生存者は、自分たちの人生に開けられた穴であのできごとを知っている。
「原爆投下について家族が話すのをたまに耳にはしましたが、ニュースの断片程度のようなものでした」。母親の胎内で8カ月のときに原爆の衝撃を経験した被爆者、二川一彦(ふたがわかずひこ)氏(79)はそう話す。二川氏の父親と13歳だった姉は、広島市の3分の2を焼け野原にした放射性の火災旋風で消え去った。「自分についての話は、18歳ごろになるまでいっさい聞かされていませんでした」
自分のような被爆者は、何十年も自身の体験について他人には話さなかったと二川氏は言う。傷物になったとか遺伝への影響があるといった、無知な世間からの差別や偏見を避けるためだ。「誰も詳しく話したりしませんでした」。肩をすくめて言った。「幸せに生きたかったからです。前を向いて」
「私たちがこんにち耳を傾けなければならないメッセージがそこにあります」。樹木医の堀口力氏は、原爆投下を生き延びた広島市中心部の159本の木々についてそう語る。
写真=ポール・サロペック
平和活動家の箕牧智之氏(座っている)は、ほかの日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のメンバーとともに、2024年のノーベル平和賞を受賞した。日本被団協は、広島と長崎の被爆者による草の根の組織だ
写真=ポール・サロペック
平和記念公園で会ったとき、二川氏は、核兵器の廃絶に向けた運動を草の根で続けてきた広島と長崎の被爆者たちがノーベル平和賞を受賞したのを祝っていた。その前に私は、その運動のリーダーのひとり、箕牧智之(みまきとしゆき)氏に話を聞こうとしたが、箕牧氏は精神的にいっぱいいっぱいの様子だった。氏はときどき思い出したように、周りから評価されなかったこれまでの運動について話した。いっぽうでその横では、ガイド付きツアーの集団が、爆心地周辺で唯一残った建物、原爆ドームの周囲をまわっていた。通りすがりに日本の新たなノーベル賞受賞者に気づいた人は、ごくごく少数だった。私はついにノートを閉じた。
街を離れる前に、私はひとりで、広島の惨劇を生き延びた、ごつごつした木々をまわって歩いた。
それぞれの樹には、天然記念物であることを示す小さなプレートがかかっていた。平和団体は、繁殖力の残る被爆樹木の種や苗木を、惨劇と再生の両方を伝えるものとして諸外国に配ってきた。だが樹木医の堀口氏が望むように、もし木々が話せたとしたら、いったい何を伝えるのだろう。私は思いを馳せた。無関心さについてだろうか。私たちは結局今でも、スーダン、ガザ、ウクライナ、イスラエル、コンゴ、ミャンマー、その他さまざまな血なまぐさい場所で市民を殺すことに関わっている。私たちはいまだに病院を爆撃している。核兵器は、どちらかと言えばこれまで以上に拡散の危機にある。そして私の亡き父は、隣で一緒に広島を歩いているとしたら、何を思うのだろう。広島と長崎の上空に、霧状になった人々の命の柱がエベレストの2倍の高さまで上がったとき、海軍にいた父は沖に出ていて、心の穴を広げていた。
一緒に歩くタナカと私は、街のショッピングセンターを、共同墓地を、パチンコ店をあとにした。
ほとんど言葉もなく、私たちは広島の川の草の生えた土手を上流に向かって、西日本の遠い海岸を目指して歩いた。人の一生分ほどの過去には、まったく同じルートを、致命的なやけどを負ったあまたの人たちが広島を逃れようとふらふらと歩いていた。周囲のナラの仲間やウワミズザクラの生える秋の山は、私たちに何も隠しはしなかった。太陽の色を鮮やかに燃え立たせていた。
初めて実戦で使われた核兵器による恐ろしい犠牲の気配が、時間によってほとんど消え去っているなかを通って、広島を離れる道のりを進む一緒に歩くパートナー、田中 “RIP” 友規氏。
写真=ポール・サロペック
