私が歩いた日本は、切望する気持ちに染まっていた。
切望すること。それは確かにどこにいても逃れられない、まさに世界共通の人間の状態かもしれない。歩いて世界を巡っていると特に、どこにいても感じる。よそから徒歩で来た、ゆっくり移動する、共感しやすいか少なくとも寛容に見える人物。そんな存在は、心の奥底に埋められた希望や打ち砕かれた夢のつかの間の器になる。例えば、カザフスタンのステップを吹きすさぶ風に服を翻しながらひとり立っていた女性。意図をもって、もどかしそうに自分の住む村人の耳に届かない場所で私たちを待ち、姻戚から奴隷のように扱われている苦痛を自分の外へと注ぎ出した。その物語は激しいむせび泣きの合間からこぼれ出た。あるいはアナトリアで、おそらく気まぐれで一緒に歩いた若い男性。自分の村がある谷から遠く離れて何キロも歩き、恋敵と自分が愛した女性との結婚式の様子をシェイクスピアのように鋭くことこまかに語った。あるいは、同じくしわくちゃな丘の中で出合った、カラシニコフ銃を肩にかついだひげ面の民兵でさえ、勘違いで奇襲してしまいそうになったことを謝るだけでなく、トルコのクルド人に対するおぞましい戦争で自国民と戦うことがいかに嫌か、自己嫌悪からの告白を1時間ちかく続けた。切望。郷愁。欲求。痛み。渇き。遠方から徒歩で訪れた存在は、そういった不都合な感情の安全な受け皿になる。私たちは口を挟まずに耳を傾ける。秘密はそのまま運んでいく。
一緒に歩いた友規(左)が、鳥取県のゲストハウスで高齢の主人の女性に料理をつくる。
写真=ポール・サロペック
日本の伝統的な文化(そうしたものがもしあればだが)として有名なのは、もちろん礼儀正しさだ(「4人目!」 一緒に歩いていた友規は声を上げた。彼は私たちに「こんにちは」と先に挨拶してくれた珍しい例を記録していた)。
誰も。誰ひとり、福岡から横浜までGPSで1505キロメートルの道中に通りすがった日本人で、私たちの前で表だって泣いた人はいなかった。それでも、自己を完結させている人々のこのダムは、にじみ出る肉筆の感情を花崗岩の崖からほとばしる水源のように、より印象的に、より感動的に、よりいっそう際立たせるだけだった。
九州から来た不満を抱えた新聞記者の女性は、数時間だけ一緒に歩いたのだが、先の見えない仕事を辞めるつもりだとあとから留守番電話に気休めのメッセージを残した。東京の会社のジャングルを柔道の投げ技をくりだすように進んできた、知り合いから友人になった男性は、ガラス窓に覆われたオフィスから私たちの歩く開けた道の様子を強迫観念のように何度も何度も知りたがった。棄てられたような集落で持ちこたえているお年寄りたちは、自分たちが切望するパラレルワールドの風景とともに、幽霊のように暮らしているように見えた。私たちと話をしたときには、ねぎ畑のまっすぐな畝に杖をつきながら、人の多い道、混雑した近所の店、キャーキャー言う子どもたちなどを見えはしないが召喚する。こうした時間の漂流は、どこのお年寄りと話していても起こる。だがこれまで歩いてきたなかで、日本ほど認知と現実の間に断絶を経験したことがなかった。寂しさと活動との間に。選び抜かれた観光客向けの装飾的建築と、同じように選び抜かれた日常の孤独との間に。それは人間の見る能力と見ない能力についての目が回るような証拠だった。活気に満ちた世界的な文化は、こうした緊張状態の上に成り立ってきた。この、ひきこもる内側と与える外側を対抗させる綱渡りというまったくの名人芸は、目がくらむほどすばらしいと同時に耳障りで不快でもあった。
豪雨のあと、琵琶湖を美しく飾る虹。
写真=ポール・サロペック
日本でのある記憶:
あるとき、日本の本州の中央を通る旧中山道をたどろうとした。17世紀に整備された権力者も通る主要な道で、当時江戸と呼ばれていた東京と、皇族のいた京都とを結んでいた。瓦屋根の集落を抜け、私たちは砂利道を進んだ。川沿いの道をハイキングして、傷を負った侍が入っていたと言われる温泉に寄ったりもした。やがてある日、山の急な斜面にあった竹林で、ルートを完全に見失ってしまった。グーグルマップでは、古代の道は大きな音を立てて車が走る高速道路へと姿を変えたことになっていた。私たちはちょうどその真上に立っていた。それでもマツからは鳥のさえずりが聞こえた。陰ではシカが草を食む音がした。
「ポール」。葉っぱの散らかった足元を指し、一緒に歩く友人がにやっと笑った。「道はトンネルの中だって。はるか地下の」
